進士五十八の造園・
ランドスケープ人生
2025年3月22日に開催された辻馬車交流会の講演会の記録をまとめたものです。
東京農大辻馬車会2025交流会開催概要
日時:2025年3月22日
会場:東京農業大学、世田谷キャンパス、榎本ホール
主催:辻馬車会(進士研究室OB・OGの会、会員数約550名)
当日参加人数:約180名

進士五十八 / Isoya Shinji
農学博士・造園家/ランドスケープ・アーキテクト
東京農業大学名誉教授 (同大第 10 代学長)
福井県立大学名誉教授 (同大第 5 代学長)
Contents
はじめに
- 造園への道
- 造園家としての研究
●造園史・造園原論が研究者進士五十八の根っ子
●造園・ランドスケープ研究者としての活動と評価 - ランドスケープ・プランナーの大学改革
●東京農業大学の改革
●福井県立大学の改革と地方創生 - 日比谷公園と私
●卒論・授業・演習・課題・2 つの学会賞で完
●日比谷公園の再生整備計画をめぐる進士の見解を『都市問題』で表明 - 上原敬二先生の神宮の森と私、そして農大造園
- 上野公園グランドデザイン進士委員長の発想と都市計画学会石川賞
- みなさんへのメッセージ
●スペシャリストとゼナラリストの両性具有
●近著『進士五十八の日本庭園』に込めた願い
●造園・ランドスケープと平和と自然:世界を
「 景観多様性ランドスケープダイバーシティー」ワールドに
はじめに
最初に、辻馬車会(進士先生研究室卒業生の会)の皆様に心から感謝を申し上げます。皆さんと共に歩んだ私のこれまでは本当に、とてもいい人生でした。ありがとうございます。
私が大学を定年で辞める際に、服部先生たちがまとめた研究室の記録『ランドスケープ・ダイバーシティ:造園原論の軌跡』(東京農業大学辻馬車会2011)を贈られました。本日の辻馬車会にも同席することを祐乗坊さんと約束していた妻の美保子は、3月1日に緊急入院し、本日は長女万里子と孫のノアが代わりに居ります。家内も皆さんに会いたかっただろうにとても残念です。「アニマル柄で皆さんを驚かせようかしら!」と申しておりましたのに。
冊子を読み返したところ、皆さんがいろいろ書いていますが、何人もの諸君が妻、美保子のことにふれ「お世話になりました」と感謝の言葉も多く綴られておりました。子育てで大変な中。明日は何人来るからネと気軽に食事の準備を頼みぱなし。妻はひとりでがんばってくれていたことを今頃になって気付く始末。若気のいたりで妻へのおもいやりが足らなかったことを痛感、正直なところ読むのがつらい。
その点を除けば、私は大学人としても「ああ、自分はいい造園家人生を歩んだな」と、しみじみと思いました。教育現場で皆さんと一緒に過ごし、造園的生き甲斐というべきインパクトをそれなりに与えられたのではないかと感じています。賛否意見はいろいろあっても、まったく構わない。お互い意見を交わし考えを深めていくことこそ人生の一大事だと思います。ほんとうに皆さんありがとうございます。
今の世界を見ていると、絶対主義的なリーダーが国を左右する場面ばかり、非常に心配になります。こういう時代だからこそ、市民一人ひとりが「まっとうである」こと、「しっかりする」ことが、ますます重要になってきていると痛感します。
植栽・緑化や水工などの造園技術のほとんどは農業技術の延長と言えます。植物をたくさん育て収穫量を上げ、生産性の向上を追求するのが「農学」ですが、そのなかで「造園学」は美しい生活環境の実現を目指すところが大きく違います。そのためには造園学では、自然科学のみならず、人間の生命や社会との連携や歴史、文化芸術を学ばなければなりません。その点「環境計画学」に要請されるのと同じです。最終的に「美」を追求するという点が、特に環境学の中でも造園学の独自性でしょう。
造園は英語では、ランドスケープ・アーキテクチュアです。ランドスケープの概念は広く、空間を限定しない「風景の目」で見ることが必要です。そして、理想的な全体像(トータルランドスケープ)を描かなくてはなりません。
ところで、ランドスケープの専門家は、土木、建築に比較すると極めて少数派です。そのため、地方行政には造園家は少なく、基本を知らない人が窓口になっています。官学公民が協力して造園・ランドスケープ界の人々の社会的役割を訴え、緑地政策や新しいまちづくりの強化、進め方をGREEN EXPO2027などを機に本当の緑のプロフェショナルナレッジが十分生きるような「社会性」が問われます。専門家たちの中だけで満足していると、広い社会との関係は築けません。一人ひとりが自覚を持ち、造園・ランドスケープ関連分野の人々と連携・連帯して全体として発言していく形に向かわなければなりません。
上原敬二先生は造園家たるものは本を書け、文章でしっかり伝えること、を教えられました。先生は300冊越え、背の高さ以上を全部単著で書かれました。それが上原先生の巨人たる所以です。私も若い時から造園・ランドスケープを理解してもらうには、文章にすることが不可欠と考えました。まずは本をよく読み、文章にするには、頭と文字を使ってロジカルに整理し、体系立てることです。造園家ならずとも政策立案や責任ある立場で仕事をするには、全体像を描くために「文章化」は不可欠です。
「文章の作り方」技術として「テーマ」「データ」「メッセージ」の三要素を研究室でも授業でも伝えてきました。何のために書き話すのか(テーマ)、どのような根拠があるのか(データ)、そして自分としては何を伝えたいのか(メッセージ)。この三つが文章やスピーチには欠かせません。「私の東京物語」も、こうした構成をもとに理解していただけるように書いています。縦軸に私自身の人生を置きながらも、それをメインとせず、「ランドスケープに関する大切なテーマをどのように体系化して社会に伝えるか」という視点で構成しました。つまり「造園・ランドスケープの市民化」を目指した文章構成の具体例です。その実例としてお配りしました。
1. 造園への道
私は造園の仕事の前に化学の職場におりました。生まれたのは昭和19年(1944年)京都の船岡山公園(わが国初の受益者負担公園 1) )近くに生まれ、戦中なので福井県吉川村(現・鯖江市)の水田地帯に疎開し、そこで父と死別、その後、兄の住む東京の下町・木場(深川)に小学校後半から移り住みました。今になって考えると、小学校時代に震災復興事業で建設された元加賀公園で遊び、清澄庭園に潜り込んでセミ採りした体験が、みんな造園家につながっていた。その後、結婚して小田急が開発した林間都市、神奈川県大和市の南林間に住むことになります。晩年8年間第2のふるさと福井の県立大学長・県政策参与として2024年春まで暮らしました。このように5回の転居による地域と人との出会いが、私の原風景論、生活風景論になりました。
ただ、戦争がなければ、このような人生とはならなかったと思います。私からすれば、ウクライナやガザの状況も皆同じです。世界中の指導者たちが、人間愛無き自己中の政治で戦争に向かっていることは、本当に情けなく、寂しいことです。人類とは、なんと愚かな生き物かと、考えさせられます。
私は都立化学工業高校工業化学科を卒業し、呉羽化学工業(現・クレハ)の東京研究所に採用されました。
世界で戦う企業は厳しい学歴社会であると痛感、それは管理社会の体系と価値観で支配されていると理解しました。自分の能力とか意志の問題とは関係ない。東京研究所の図書室には世界中の特許、多くのアブストラクトが揃っていました。どんな化合物でも合成できるように書かれており、ほぼ何でもできている完結した世界だと感じました。
そんなころ、通勤途中ビルの屋上に建仁寺垣や植栽が施され毎日少しずつ庭園が完成に近づいていくのを車窓から見ていたことがきっかけで、「日本庭園」を造ってみたいと思うようになりました。自分ひとりでも何かをやれる、トータルに関われ、組織の歯車にならない「自分らしい生き方」は、それかもと感じ、造園の良さに興味を持ったのです。
二年半の呉羽化学勤務を経て、東京農業大学の造園学科に入学しました。化学とくらべる私には、造園学科には辞典も文献目録もなく、造園学会誌や庭園誌もそろっていない。学生時代から岸塚先生と協力して、農大造園の研究室でそれらを整理しました。助手になってからも、造園関連の雑誌のバックナンバーを収集製本しました。
造園学科生として私が感じた疑問は、「造園とは何か」、「造園の空間や形はいかなる原則で設計するのか」でした。そんなこともあって大学一年生の夏休みに一ヵ月間「サークル・庭」の仲間と京都で庭園合宿し、毎日、名庭を見学しました。京都の庭園はなぜか枯山水が多い。「それはどうして」の疑問から、禅宗の歴史、禅院の成立を調べ始めました。また、なぜに西洋庭園とはちがって滝や流れの自然風の造形になったのか、そんなことから「日本庭園の意匠の独自性はどこからきたのか」を、いろいろ考えるようになりました。
一方、学生時代金井、岸塚先生の紹介で、井下清先生が副団長であった東京都文化財総合調査団の景観班の調査員をやらせてもらいました。「景観班」は井下先生の命名で、当時まだ珍しい景観の語を使っていました。兄の自動車を借りて下町一帯や多摩地域の現場を調査し、その結果や資料のまとめのため井下先生のお宅をお訪ねした折は色々なお話を伺い勉強になりました。
大学では幸せなことに三人の恩師に出会いました。上原敬二先生は博学で、「造園学」の概念を確立、また150年先を予測して「神宮の森」を造りました。江山正美先生は今の造園は絵空事で、もっと科学的に都市の緑や自然を守るための「環境計画の科学」を目指さなければならないと強調されました。農大の常務理事と教授でもあった井下清先生はもともと東京市の役人でした。財政難だったこともあり東京の公園は整備も運営も独立採算制度で賄う今でいう「パークマネージメント公園経営)」の先駆者です。関東大震災復興52公園をわずか7年で完成させるなど、市民生活と時代的要請に応える造園の実学性を教えていただきました。
一方で、毎年同じノートを読むだけの、専門でさえその一部しか教えない先生もおられました。それを私は反面教師とし、全体像は自分自身で学ぶしかないと考えるようになったのです。
当時の造園学科生には造園業界の跡取りが多かったです。その人たちは、理解が早いけど、私には造園分野や業界がどういうものかよく分かりませんでした。
造園界は意外に広く、たとえば関連の協会として、国立公園協会、日本自然保護協会、日本公園緑地協会、日本観光協会、都市計画協会、東京都公園協会などいろいろあり、機関誌を発行しています。産業界にも日本造園建設業協会やランドスケープコンサルタント協会や日本植木協会などいろいろ。ほかに今日もきている小沼(16期)さんが副会長の民間団体、日本庭園協会もあります。
私は入学後、これら「造園界の歴史と全体像」を知りたくて、上原先生のご紹介で前島康彦先生を幾度も訪ねご自宅でお話も伺いました。それで3年生のとき大学祭(収穫祭)文化展の委員長を任され、4月から60名もの多くのメンバーを勧誘。マザー牧場へのバスツアーも実現しました。車中で、「造園界の全体像」を説明し、文展参加への意欲を高めました。夏休み以降は各自で手分けして、いろんな協会の本部を訪ね、資料を集めました。11月の収穫祭文化展の造園学科のブースでは「造園界の全体像」がわかるおしゃれなパネル展示を行い、日比谷公園の歴史など、時間かけた調査をとりまとめた『近代造園の発展』の500頁の本は会場で頒布しました。この本は良くでき千葉大学造園学科の先生にも購入していただきました。
これら文展調査を通じ、造園分野は、日本庭園、都市公園、自然公園から観光まで実に幅広いし、おもしろい世界だという全体像を私はより具体的に理解しました。そして自然保護か観光開発か、が話題になっていることも知りました。
卒業論文では、江山先生から日比谷公園の改造計画に取り組むよう言われました。学生時代から日本庭園をやりたかったので、「禅の庭否定論」を発表してもいました。江山先生は両方やっても良いといわれ、私の卒論は「日本庭園河原者造型論」、「日比谷公園の研究」(歴史編・利用現況編)と、東京農業大学「学長賞」及び東京都公園協会賞「井下賞」を受賞した「公園設計に関する基礎的研究、特に公園利用者の占有位置と占有特性」の4冊を提出しました。
2. 造園家としての研究
●造園史・造園原論が研究者進士五十八の根っ子
1969年4月、卒業と同時に東京農業大学農学部の助手として採用され、江山先生の造園学研究室に勤務することになりました。江山先生は当時造園学科長で造園学総論を担当されていました。授業での先生はアジテートがお上手で、そのペースに乗って、13期生の多くは造園をやらねばと自覚し頑張ってきました。
学科指針で造園学を「環境計画の科学」と位置づけ、よその大学に負けるなと教員や学生を鼓舞されました。この頃、時代は公害や自然保護などの環境問題が噴出していました。そこで収穫祭の一環として「緑の旗のデモ」(1970年)を造園学科の学生が企画し、デモには先生も巻き込み、世田谷公園から明治公園まで行進し、新聞にも大きく載り、このデモを見たことで造園学科に進学する学生も増えました。
助手の私は「自然保護=人間保護」のスローガンを掲げ緑のデモに参加しました。江山先生もいっしょです。これは造園の思想を市民に訴える重要なアクションだったと思っています。
また、時代の要請に応じて、平田、森永、有賀(17期)さんらの環境問題研究会、永田さんらの造園教育研究会、松涛さんらの造園児童研究会など次々研究室内同好会を立ち上げました。造園児童研究会は私が卒論で知った末田ますのネーチャー・スタディの重要性を掘り下げたり、子どもの遊び場の重要性を感じ、経堂の大村璋子・虔一夫妻とも連携。冒険遊び場(アドベンチャー・プレイグラウンド)運動を応援しました。
私は化学工業高校に進みました。成績が良かったので大手の化学会社研究所に勤めました。そのおかげで「化学」の世界で研究とはどういうものかを理解でき、「造園」研究もより俯瞰的に見ることができました。
綿密に完成された学術と技術の化学の世界では排除される人間性や美・芸術性が造園にはある。自由であいまいさを許すランドスケープの面白さ、さらに言えばすべてを機能性や合理性で規定する現代社会で情緒性や自由度の価値を重視するオープンスペースの大きな意義に気づき、その発現のために造園家は一層力を尽くすべきではないか、と思うようになりました。
私の造園学の根っこは、造園史及び造園原論にあります。「未来を読むための学」(過去の歴史から、現在の課題を考え、未来を推測するもの)としての造園史。そして「造園の哲学」としての造園原論が大切です。 原論さえしっかりと押さえておけば、どんなテーマ、コンセプト、計画、課題にも、その思想によって対応できると私は考えています。そのようなことから、私は歴史を踏まえた造園・ランドスケープ原論の研究に励み、庭園、公園、都市、田園、自然の全フィールドを舞台として、P(Physical:空間特性)、V(Visual:景観性)、E(Ecological:環境性)、S(Social:社会性:時代性、地域性)、M(Mental:Spiritual:心理・精神性)のPVESM
のチェックポイントを切り口に取り組み、そのすべてを満足するAmenity Design:愛ある環境創造を目指してきました。そのために必要なら、造園計画原論、環境計画、景観政策、観光地計画、自然保護運動、環境市民のまちづくり等何でも取組み、広範な学識経験委員としての社会活動にも参画してきました。こうして研究論文、著書、報告書など、公刊された、小文は2,000本を超えおり、盤寿で81歳の現在でも、新しい本に執筆中です。
●造園・ランドスケープ研究者としての活動と評価
私は、トータル・ランドスケープの視点から、多様な分野を並行して幅広く研究してきました。その結果として、「井下賞」「田村賞」「北村賞」「今和次郎賞」「石川賞」「上原敬二賞」など、立派な仕事を全うされた方々の人名を冠した賞、多分野にわたる賞をいただいています。研究室のOB・OGの皆さんでも馴染みのない賞も
あるかと思いますので、ここでそれぞれの賞の対象となった私の研究や著書など、簡単に紹介しておきます。造園・ランドスケープの多面性がわかると思います。
●「東京農業大学学長賞」受賞(1969年24歳):受賞論文は卒論「公園利用者の占有位置と占有特性」。この研究は自由にどこにでも入れる芝生広場で拠り所となる林縁部にカップルは座り、カップル間の距離は40フィート(12m)というように、利用者はどういうところにどんな間距で位置を占めるかを明らかにしました。園地の適正利用密度の数値化です。
●「東京都公園協会井下賞」受賞(1969年25歳):東京市の公園課長井下清は、東京の公園行政の基礎を築いた大先輩で、先生からの寄付金が基の賞です:受賞論文は「公園利用者の占有位置と占有特性」。
●国立公園協会「田村賞」受賞(第5回1984年40歳):田村剛林学博士は「日本の国立公園の父」と呼ばれています。受賞理由は『緑からの発想』(思考社1983)の著作と「保護と開発の調和手法」の提案、保護だけでなく自然を活かし共生する環境づくりの実践計画です。
自然公園の研究は1969年助手(24歳)になってからすぐ江山研に吉野熊野、大山、霧島などの国立公園の保護と利用の計画策定依頼があり、それらの成果を「自然要素の評価による自然地域の保護と利用」(国立公園1972)として発表しました。それまでの常識だった保護と開発は対立するものではないこと。自然科学的に調和できるものだと立証したもので、『DESIGN WITH NATURE』(Ian L.McHarg1969)を参考に、メッシュアナリシスを援用、地形・地質・植生・地下水など自然要素を重ね合わせて保護区分の分級図を作成し開発許容度方針を立案したものです。
また、そのころ国立公園のオーバーユース対処の受託として、『自然公園の収容力に関する研究』(環境庁委託1973・74)がありました。日本では研究事例もなく、SD調査など調査方法も一から考え、上高地や尾瀬などでキャプロチ-ム(有賀一郎・飯島長寿・久保田美紀・坂口朋子)のみんなと一ヵ月ちかく合宿を行い、収容力の具体的方法と数値を提案。上高地のマイカー規制方針の根拠となったものです。
●「日本造園学会賞(研究論文部門)」受賞(1989年45歳):造園学の顕著な進歩発展に貢献した者に授与され、受賞論文は東京農業大学から農学博士(論文博士1986)を取得した「日本庭園の特質に関する研究」で、翌年『日本庭園の特質-様式・空間・景観』として上梓(東京農業大学出版会1987)しました。これまで
の学会論文のような歴史中心の日本庭園論とはちがい庭園史上の名園に共通する空間上、景観上の要因に注目、たとえば囲繞、借景と仰角、植栽樹種の傾向、池汀比、石数比など多面的に数値分析して計画原論の確立を目指しました。私にとっては、それが日本の風土下のすべての造園の原形と基本となると考えたのです。古今東西すべての日本庭園の特質は「縮景」「借景」「樹藝」「び(時間の美)」の4つのキーワードで説明できるのです。特に西洋庭園とは違う日本造園の特色として、私としては「自然学習性」や「Agingの美」等々、新しい概念を提案しました。
その入口は、卒論生の藤田、為永君らに手伝ってもらった「月の桂の庭」の実測調査報告と造園史的考察」(1971)があり私らしい庭園研究の原点です。日本の石組みの常識を破る石の上に石を重ねる(L字型)の石庭は、地元の花こう岩地質風景の「写景」だったと結論。「自然学習性」と名付けた思い出があります。細部だけを見るだけではなく、「風景の目で」周辺環境をウオッチングすること、また空間のみならず、時間の美(歴史の美:エイジングの美)・然びの大切さを発見したのです。のち『日本の庭園-造景の技とこころ』(2005中公新書)を一般向けに上梓してロング゙セラーとなりました。
〇1999年(54歳):東京農業大学第10代学長に就任。2期6年で農大の環境シフトをリード。東南アジアのみならずオランダ、モンゴル、イスラエル、フランス、ブラジル、ペルー、メキシコなど世界中へ姉妹大学を拡大、グローバル化対応。「食と農と環境を考える世界学生サミット」を開催が継続されている。
〇1999年(55歳):日本造園学会会長。編集担当理事のとき学会誌を『ランドスケープ研究』に改名、会長のとき「技術報告集」を新たに発行。
〇2000年(56歳):地元東京都世田谷区の都市美・環境・景観・緑化・親水・百景など区民参加型まちづくり委員長等会長として深くかかわり、最後には世田谷区教育委員を12年間つとめ、内閣府の「日本語特区」に関連して二子玉川公園内に熊本区長の依頼で「」を計画プロポ-ザル方針と監修。清水建設の社会貢献により復元できた園内の中心である旧清水邸書院ではこどもたちが日本文化を体験できるようにした。
〇2000年(56歳):GCHERA(世界農学高等教育連合)の副会長。日本代表として、2003年世界大会(ウクライナ・キエフ)において「21世紀は農の時代」を基調講演。ほかに農大学長としてペル-のラ・モリーナ大学の百周年記念スピーチし個人的に庭の春日灯篭を寄付。メキシコのチャピンゴ大学など諸国と友好関係を結
ぶ。
〇2001年(57歳):日本農学アカデミーの創設、理事を2023年まで続ける。
〇2003年(59歳):日本都市計画学会会長
〇2003年(59歳):環境省・農水省ほか共管の自然再生専門家会議委員・後に委員長
●「土木学会デザイン賞最優秀賞」受賞(2004年60歳):土木学会景観・デザイン委員会主催の顕彰。
三島市源兵衛川・暮らしの水辺」(静岡県東部農林事務所、地域環境プランナーズ、三島ゆうすい会と進士の連名で受賞。
〇2005年(61歳):日本学術会議20期21期会員、初代環境学委員会委員長。日本学術会議は国内科学者の代表による日本国のナショナル・アカデミー。総理大臣の任命。
●「日本農学賞」・「読売農学賞」受賞2006年(61歳):この賞は日本の農学会傘下の54学会が選考する最高賞。業績は「日本庭園の特質に関する研究」。造園界では1943年の吉永義信、1982年の佐藤昌先生、以来の受賞。
〇2006年(62歳):社叢学会副理事長、関東支部長。社叢学会は社寺境内の鎮守の森などを学際的に調査研究。社叢の保全と日本文化史上の意義の啓発目的に上田正昭、上田篤先生らと設立。造園家としては政教分離原則の下“社叢を歴史的緑地”と定義し国に提案。
〇2006年(62歳):日本野外教育学会会長
〇2006年(62歳):し国づくり協会理事長(国交事務次官青山俊樹、建設通信社新聞社長西山英勝と進士五十八の三名の申歳を中心に結成したNPO法人、2004年高梨雅明氏にバトン)
〇2007年(63歳):日本生活学会会長(2024年顧問に)。今和次郎、川添登先生らが分化していく生活を衣食住、家族、近隣社会、福祉、娯楽・休養を多面的に向上、新たな生活環境をトータルに創造する目的で創設した学会。
●「紫綬褒章」天皇陛下からの受章(2007年63歳):科学技術分野における発明・発見や学術、スポーツ、芸術文化分野で優れた業績を挙げた人に贈られる。造園界の紫綬褒章受章者は龍居松之助先生(1958)に次いで2人目の栄誉で「緑と農と環境をつなぐ会」と名づけた祝賀会が帝国ホテルで催され千人を超える集いに。
●日本公園緑地協会「北村賞」受賞(2007年63歳):東京緑地計画をリードした北村徳太郎先生を記念し公園緑地計画、管理論等業績に贈られる賞。
〇2010年(66歳):IFLA世界造園家会議第47回世界大会(中国、蘇州市)、東洋人から唯一のキーノート・スピーカーとして21世紀地球社会の在り方を「ダイバ-シティからのランドスケープ論」として講演。
●日本生活学会「今和次郎賞」受賞(2012年68歳):生活学会初代会長今和次郎氏を記念した賞。『日比谷公園・100年の矜持に学ぶ』(鹿島出版会2011)の著作における日比谷公園100年の「公園生活史(parklife history)」と「マン・ウオッチング(人間行動観察)」など考現学手法を取り入れた研究が評価された。この本は、日比谷公園百有余年の波乱万丈の生活史に光を当てた私の40年の総まとめでした。卒論「日比谷公園の研究」(歴史編・現況編)(1969)を始め「公園生活史の研究2.日比谷公園史」(生活学会報1982)、「日比谷公園の総合的研究」(1)~(8)日本建築学会関東支部1983)、「日比谷公園からの発想」(都市公園2006~2009)等々が初出。
●日本造園学会「特別賞」(2012年68歳):『日比谷公園~100年の矜持に学ぶ』の著作業績に対して造園学会からも特別賞が授与される。
〇2013年(68歳):福井県里山里海湖研究所長に就任し、10余年にわたり生物多様性と県民のふるさと保全の住民活動を支援継続、現在も。
●「サントリー地域文化賞」(2015年71歳):サントリーホールで地元下蒲刈島財団として受賞。進士研究室が策定(計画報告書、1991年47歳のとき)にもとづいた町民参加事業、「歴史と文化のガーデンアイランド 下蒲刈島、住民皆なが参画する、歴史と文化の薫り高い島づくり」として受賞。当初は伊藤邦衛、野沢清、黛卓郎、井上剛宏、小沼康子、渡辺俊雄ら日本の造園家らによる新下蒲刈八景の島づくり。その成果は進士・竹内監修、進士執筆『庭園の島・21世紀日本のまちづくりモデル、ガーデンアイランド下蒲刈』(マルモ出版2003)として、合併直前の呉市下蒲刈の全戸に配布された。
●内閣総理大臣から「みどりの学術賞」受賞(2015年71歳):昭和天皇の緑を大切にされたお心を育むために天皇皇后両陛下、三権の長臨席の下、贈られる賞。国内において植物、森林、緑地、造園、自然保護等に係る「みどり」に関する学術上の顕著な功績のあった個人に授与される。内閣府発行の冊子によると「日本庭園と農の融合による『みどりのまちづくり』の計画・政策・実践」が進士の功績とされる。
なお進士の「みどり」関連の論文「住環境におけるグリーンミニマムの研究」(1975)では、300mメッシュの居住環境での自然面率は50%が必要」が提案され、『緑の東京史』(思考社1979)、『緑のまちづくり学』(1987)、『アメニティ・デザイン』(1992)、『ルーラル・ランドスケープ・デザインの手法』(1994)、『農の時代
』(2003)、(以上4点は学芸出版社)、『ボランティア時代の緑のまちづくり』(東京農大出版会2008)等多数の著書がある。
〇2016年(71歳):福井県立大学第5代学長としての6年間で大学改革と創造農学科、先端増養殖科学科、健康生活科学研究科、恐竜学部などを新設し県内高校生の選択肢を拡大。県民の生涯学習・地方創生行政に貢献する公立大を具現する。
●日本造園学会「上原敬二賞」受賞(2016年72歳):研究、著作、作品等広範な社会活動造園分野の進歩,発展に顕著に貢献した者。上原先生ご遺族のご寄付金を基金として造園学会が設けた賞。
●日本都市計画学会「石川賞」受賞(2024年80歳):都市計画の顕著な進歩、発展に貢献をした個人等を対象。受賞テーマは「上野恩賜公園の再生~グランドデザインの策定から実現まで~」(グランドデザイン委員長として進士がリードした点は、「上野公園」で後述)。
●「日本造園学会賞(著作部門)」受賞(2025年81歳):対象は『進士五十八の日本庭園・技心一如で自然に順う』(市ヶ谷出版社2024)。日本庭園の本質、特質、魅力、技術、さらには進士五十八の日本的ランドスケープ論を日本庭園をケースに展開。世界中の造園家のみならず建築家やデザイナー、アーティストにその思想を伝えたいと、「日英2カ国語版」で刊行。すべてのエデイトリアルデザインは著者の長女ベンソン万里子、英訳はベンソンマーク(夫)、表紙は著者の妻進士美保子の油絵により4か年かけて完成した。
●「瑞宝中綬章」天皇陛下からの叙勲(2025年81歳):大学人としての教育研究功労により受勲。皇居新宮殿に参内、文部科学省系の受章者一同を代表して春秋の間において天皇陛下に直にお礼言上申し上げました。
以上のように見てきますと、私の研究や論文は学生時代からの様々な体験と直感を契機とし、全てにオリジナリティーを広げ、齢を重ねても要請される必然性を踏まえつつ新たな着想から論理を構築し、敷衍・発展させ続けてきたことがおわかりいただけるでしょう。とかく専門家というものは細部にこだわりすぎて、全体像や未来ビジョンを描けないことが多いのですが、私はランドスケープアーキテクトですから、ゼネラリストとしてあらゆるものを視野に入れることの大切さを考えてきました。ですから学会も受賞対象も「公園・緑地」「みどり」「自然公園」「景観」「環境」「土木」「農学」「学術」「生活」「都市計画」と学際的で多岐にわたります。10近い学会長を始め、沢山の委員長、審議会長を務めさせていただきました。特に日本学術会議では環境学委員長を6年間、連携会員と合わせて12年間、芸術家、法律家、建築家、農学、医学、化学、機械、生態学者といった異分野研究者のとの議論、協働と交流もいたしました。ほかに内外大学の客員教授や非常勤講師で他分野の学生院生に、またTVラジオや市民講座で多様な方々に緑のまちづくりや観光風景づくり、ランドスケープ論をレクチュアするのも楽しみであり、同時に多様多彩な方々との交流の好機でした。そうしたネットワークが回り回って農大や農大生の支援につながっているのです。
3. ランドスケープ・プランナーの大学改革
●東京農業大学の改革
私は、1975年農学部造園学科講師、1982年農学部造園学科助教授を経て、1987年、42歳で東京農業大学の農学部教授に昇格しました。その後直ぐに学生部長、総合研究所長を経て、1995年には10学科体制最後の農学部長に選任されました、それ以降、これまでの教育研究に加え大学の運営にかなり力を注ぐことになります。農学部長として、改革が遅れていた農大の喫緊の課題は、社会変化に対応する新学科を造り、定員増で大学財政の安定を図ることでした。しかし、工場等立地法によって東京23区内では大学の新増設が制限されていました。そこで、厚木キャンパスの新設と農・畜2学科の移転とが決められました。当時世田谷在住の先生方も多く猛反対もありましたが、現在では感謝されているようです。今では、厚木は神奈川県で住みたい街ランキング1位になっています。
当時、農大は世田谷キャンパスとオホーツクキャンパスに分れていましたが、新しく厚木をキャンパス化し、その学科定員数を世田谷キャンパスの新学科として創設しました。その結果、学部が、5学部16学科(農学部3学科・応用生物科学部4学科・地域環境科学部3学科・国際食糧情報学部3学科、生物産業学部3学科)体制の生物生命科学系総合大学にしたのです。
すべての学部学科をバランス良くトータルな農大力を高めたと思います。特定の学部学科に偏ることなく、都市農学の全体像を明確にし、環境・グローバル時代における将来像を考えました。環境学の寄付講座をもらって来たり、「ISO14000」や「環境学生」の商標登録もしました。姉妹大学をフランスや南米へ世界規模に広げました。 その後、2017年に地域環境科学部に地域創成科学科も開設されました。これは学部再編成時からの構想を麻生先生らが頑張ってできたのです。農大再編成はプランナーとしての私の経験を活かし、知恵を出し関係者に頭を下げてすすめたものです。出来上がると簡単に見えるでしょうが、文科省への申請許可、学部学科の調整、人事、キャンパス建設など盆と正月がいっしょどころではない大仕事でした。農大新体制改革は誰にでも成しえたとは思いません。なお、造園学科については、トータル・ランドスケープをめざすべきでサイエンスに特化してはいけないと考え「ランドスケープ学科」にしたいと提案しましたが、科内で反対され結局、「造園科学科」という名称に落ち着きました。
造園とは、科学であり、技術であり、芸術でもあります。ですから、「造園学科」でよいと思います。ただ、「造園」という文字には、どうしても国構えで囲まれた空間というイメージがついて回ります。一方、「ランドスケープ」はもっと広く、庭も公園も、国土も地球も含まれ「アーススケープ」という言葉さえあります。そう思っていたのですが、それがなかなか理解されない。ただ、造園が科学であり、技術であり、芸術であるということだけは、譲ってはいけない本質論だと思っています。このトータルな側面こそが、造園・ランドスケープ独自の素晴らしさなのですから。
農学部長、地域環境科学部長を経て、学長(1999~2005年)に選ばれました。農学を、生きていく人間と自然との関係の学問と捉え、21世紀の人類と地球が直面する「食料」、「環境」、「健康」、「資源エネルギー」に取り組む全学的な体制を強化し、先生方には「環境研究者(生態系保全型農業研究会、農薬も環境を考えた研究など)」、学生には「環境学生」という登録商標も取得し、環境に関するフォーラムや公開講座や造園学専攻も含めすべての学科の上に大学院の博士前期・後期課程を設けました。他大からも多くの先生を農大に迎えましたが、なかでも鈴木忠義先生は教育者、研究指導者としても最高の先生でした。これら環境シフトを仕上げ入試制度を改善。2005年全国の国公私立の大学受験生増加率は東京農業大学が日本一になりました。各学科の入試の競争率・偏差値も上がり、農大全体のステータスが向上し、教員・学生の評価も高まりました。
●福井県立大学の改革と地方創生
2010年東京農業大学を定年退職。第二の故郷とも言える福井で、県立里山里海湖研究所の初代所長(2013年~現在)、福井県立大学の第5代学長(2016~2022年)、2023年4月からは福井県政策参与(現在は、政策アドバイザー)として、地方創生、新幹線敦賀延伸に向けた観光、公務員の人材教育に取り組んでいます。
地方の公立大学は、どの県にも存在します。富山県立、石川県立、福井県立と、横並びです。ですから福井でも、私はかなり努力しました。私は、共通して大事なことと、それぞれの大学が持つべき個性の普遍性と独自性の両方で、アイデンティティを確立することが大切であると考えます。
だから特色のない公立大学に、しっかりとした旗を掲げたいと思いました。福井にはポテンシャルの高い現代技術、文化・歴史資源があり、最たるものが恐竜、日本中どこにも負けません。恐竜が生息していた三つの古代地質時代すべての化石が存在するのは、福井だけなのです。必然性は高い。そこで、私は就任してすぐに「恐竜学部」を設立しようと考えました。
ところが、いろいろ批判もありました。大学の全体像や役割に対する理解不足もあり、地元経済の活性化に役立つものでなければ評価されにくい現実もあります。
そこで、まず実学的に地元で活躍できる人材を育てる創造農学科と先端増養殖科学科を開設し実績をみせました。恐竜学部構想においても就職先を考慮し「恐竜・地質学科」として、資源開発やゼネコンなど建設分野に就職できる学科としました。
大学の改革は農大時代の大学改変・運営の経験を生かすことができました。とは言っても、学長を名誉職としてとらええるようでは、大学改革は無理。大変なエネルギーが必要です。県大学長時代はキャンパスに桜や果樹を植え、大学生だけでなく地域住民が訪れる場所として開放を促進しました。「オープンユニバーシティ構想」と称しました。また、地元永平寺町景観審議会会長としてリーディングプロジェクト方式による景観計画も策定、今でも応援しています。地元大本山永平寺の宿泊施設新設や旧参道、また足羽川激特事業河川整備検討会委員長の経験から永平寺川の親水護岸等の修景整備の監修をしたり、学長退任後も、福井県の政策参与として福井県長期ビジョンの座長を務めたり新幹線延伸開業に向け恐竜広場や景観整備を見届け、2024年春南林間自宅に戻りました。
2025年4月には福井県立大学に世界で初めての「恐竜学部」が誕生しました。入試倍率は前期が7.3倍、後期は27.3倍と高倍率で大人気、隈研吾設計の恐竜学部研究棟は勝山市の恐竜博物館に隣接して建設中で来春オープンです。
4.日比谷公園と私
●卒論・授業・演習課題・2つの学会賞で完
私にとって日比谷公園は、江山先生に卒論の相談に伺ったところ「日比谷公園の改造プラン」をテーマにせよと言われたことから始まりました。1964年東京オリンピックの頃の土木分野では、古くなったものはすべて造りかえるのが当たり前だったのです。私は深川の実家から日比谷に毎日のように通い、現場から発想することの大切さを実感しました。多くの人は研究者とは研究室で研究するものだと考えがちですが、ランドスケープの仕事はすべてが現場、すなわちフィールドにあると確信したのが、日比谷での経験でした。日比谷公園はリアルに物事を考えることの大切さを教えてくれました。
フィールドワークから得た日比谷公園は、どのような利用者も受け入れる多様な空間が共存する「幕の内弁当」のような16haの洋風公園だということはテレビ東京の『新・美の巨人』で私がアピールして点です。
日比谷公園の歴史を調べると、近代日本史の舞台には常に日比谷公園がありました。伊藤博文の国葬、大隈重信の国民葬の会場にもなりました。そういう意味でも、国家的広場としての役割を果たしてきた公園でもありました。また、野外音楽堂、公会堂といった集会施設、松本楼(カレーライスで有名)などは文化人のサロンとしても機能しました。まさに、政治、経済、社会、文化、アートの舞台として社会と時代の縮図でした。
一方、生活史(life history)的に造園空間(庭・公園)を調べていくと庭や公園は「生き物だ」と認識されます。
時代の変化を受けて変容、成長もしくは破壊され変貌していくのが「造園」です。完成されたときだけでなく、自然、立地・社会背景、財政事情、時代の風景観、政治経済、社会福祉など多面的な社会条件に規定されながら構成され、完成後もそうした諸条件と関連しながら変遷を重ねるのが「造園・ランドスケープ」というものだと認識で、モノとコトを考えなければなりません。なお、私は卒論で膨大な文献調査、現地調査を実行しましたが江山先生は卒論の一部、占有空間調査のみを評価されました。そこで定年後『日比谷公園』を公刊し、2つの学会賞を手にしました。
●日比谷公園の再生整備計画をめぐる進士の見解を『都市問題』で表明
日比谷公園には「市政調査会」があります。これは後藤新平と安田善次郎によって、「都市の行政は科学的研究に基づかなければならない」という思想のもとに設立されたシンクタンクです。日比谷公会堂の持ち主でもあるこの市政調査会は、市政会館の収入源としてコンサートや政治集会などに貸し出しています(現在、公会堂の家主は東京都)。機関誌『都市問題』では戦前から都市に関する課題を取り上げてきました。本来、都市行政は人気取りではなく、政策論を積み重ねることで成り立つべきものといった考えから、市政調査会の設立と雑誌が発行されてきたのです。
私はその都市問題116号(2025年4月)にも、論文「大規模都市公園のメタボリズムを考える」を寄稿した。何本かこれまでも論文をかいていますのでバックナンバーをご熟読願えると幸いです。
私は、日比谷公園のグランドデザイン検討会の委員長をお引き受けし「日比谷公園グランドデザイン~5つの提言~」(2018年12月)としてコンセプトメーキングを行いました。その後、日比谷公園開園130周年(2033年)を完成目標とする「都立日比谷公園の再生整備計画」答申(2021年3月)がなされ、事業が始まっています。色々と新聞誌上などに反対意見も出ていますが、今回の再生整備計画は十分に意義・価値があると私は確信しています。
今回の再生整備計画は単なる修復整備ではなく、将来の公園都市・日比谷を見据えた都心の新陳代謝(メタボリズム)です。都市も公園も変化するもので、計画は、歴史・文化、公園デザイン、緑など、120年を超える「歴史的公園」の重みを認識・継承し、老朽化した施設やインフラなどの設備を更新し、バリアフリー化を進めます。また遮蔽樹林の一部を伐採、デッキ等で周辺施設とも連結し、都市に開かれた公園に変えるものです。現実を直視して、次の時代に向け公園が持つ多面的な魅力をもっと引き出し、地域全体のQOLを高め東京のシンボルにふさわしい公園に再生すべきです。
大切なことは日比谷公園のみを見るのではなく、「風景の目・ランドスケープの目」で東京都心の在りようと未来を見なければなりません。そして、公園は都市計画施設の一つですから都市計画(日比谷のまちづくり)と都市公園(日比谷公園)を一体的に考えなければならないのです。
日比谷公園を東京・日比谷の座標軸の中心に相応しい再生を行うべきです。「外部に開かれた公園」にすることによって、周囲の高層ビルの形態、人の動線を変え、ビル群の外部空間、公園的雰囲気のモール、広場などオープンスペースを連続させ、駅等主要施設や官庁街の中までつながっていくことを意図すべきです。日比谷公園の雰囲気が周辺地域に連続、緑が広がる「公園都市・日比谷エリア」を目指したいと思います。
5. 上原敬二先生の神宮の森と私、そして農大造園
田村剛先生が明治神宮は、近代日本の造園学発祥の地であるとかかれています。明治神宮の内苑と外苑を整理すると、内苑は「鎮守の森」づくりとして位置づけられます。後に、NHK総合テレビのNHKスペシャル番組で何回か(60分。120分等)神宮の森の100年特集が放送されました。
2020年に鎮座100年を迎える明治神宮広報課長の福徳美樹さんから、東京湾百年の森とか社叢学会とかで相談を受けていたのとそれに私は日本学術会議環境学委員会の委員長を務めていたこともあって、神宮の森の境内総合調査の責任者を引き受けてほしいということになりました。そこで上原先生とのご縁から本多、上原先生ゆかりのメンバーなども加えて大きな委員会を立ち上げました。それまでにも毎木調査がなされていたのですが私としては、「生物多様性の時代」に巨大東京では神宮の森のような都市林(72ヘクタールの内苑)は、絶対に不可欠だと考えました。植物に加え動物、鳥、魚、微生物までを総合調査した結果、オオタカの生息も確認、生態学的にも重要な価値を持つことを明らかにしました。生物群の沢山の要素の調査員はもちろんですが、映像と生き物すべてを知る伊藤弥寿彦さんという名プロデューサーの努力や神宮スタッフやイオン財団の協力を得るように関わっていただけたことに大きな意義を感じております。
ランドスケープの基本とは、全体のバランスと、目指すべきゴールを見定めることにあります。明治神宮の森は、生物多様性の観点からも極めて重要であり、一方で明治天皇を御祭神とするスピリチュアルな場でもあるナショナルモニュメントとしての性格も併せ持っています。政教分離の憲法上の議論もありますが、日本文化上の重さを考えれば「社叢造園学」は、日本の造園家にとって基本的素養であるべきで、政策的には「歴史的緑地」と呼ぶべき公共性をもっています。実際に見ればわかります。明治神宮内苑には世界中の人々が訪れています。日本人の自然共生理念が直感できる存在で、グローバルな価値を持つ空間です。多くの国家元首も参拝に訪れる「神宮の森」なのです。造園界にとっても大きな環境資産であると思います。内苑は、自然風景式と多様な土地利用と生物多様性、環境再生モデル。自然の時間経過による植生の遷移に任せる思想です。第47回IFLA大会の冒頭でも、神宮内外苑を対置して説明しました。内苑は「和魂」、日本古来の鎮守の森。外苑は「洋才」。西洋の権威表現手法によるランドマーク。明治天皇の一代記の絵画館を中心に4列のイチョウ並木のシンメトリカル軸線構成プラン。外苑は運動施設など現代都市公園でなら運動公園。メンテナンス、維持管理にマンパワーが必要な現代的緑地です。
上原先生は当初、大学院生でしたが、明治神宮の森の構想を真剣に考えておられたことは、私が編集し、タイトルをつけてエルデタイプ社で印刷した『人のつくった森』(1971)を読んでもらえばよくわかります。(後、東京農大出版会で刊行(2009))また、私の近著『進士五十八の日本庭園』でも、巻頭から明治神宮の森づくりに多くのページを割きました。それは、近代造園学の根幹がそこに凝縮しているからに他なりません。大地上に展開する自然風土を母体とする造園・ランドスケープの本質は各国がそれぞれ独自の造園様式を持つことです。上原先生は「御陵(古墳)」「鎮守の森(社叢林)」「日本庭園」の三つが日本の造園の柱と説いておられます。仁徳天皇陵のような巨大な墳墓は、世界遺産に登録されています。あのような大規模な古墳を築く力を見せることで、「あの大君と戦争はできない」と思わせ戦争抑止力となる。大衆に対して政権の安定を示す役割を果たしたのでは、というのが私見です。殺し合いをする軍人や政治家は下の下。平和的に政治を進める価観です。
もう一つが「鎮守の森」。これはまさに、コミュニティグリーン、コモンスペースです。私は、日本の公園の原点は「鎮守の森」にあると、ずっと主張してきました。地域の氏子、住民が土地を提供し、神社を囲む森を育み手入れをし、氏子らは年中行事として、春夏秋の豊穣の祭り、相撲大会、盆踊りを楽しむ、鎮守の森は祈りも娯楽も含む包括的なコミュニティー文化の場です。結婚式は教会で、葬式はお寺でとか、斎場かホテルかというビジネスに分断された文化ではなく、本来日本人の文化はトータルでした。現代の都市公園もそうしたあり方が理想です。このように、歴史から学びどれほど深く考えるかで、私たちの現代都市や公園の未来も大きく変えることができるのです。
上原敬二(1889年生)先生は造園学校を1924年に創設しました、「東京の震災復興を成功させるためには、土木家や建築家だけでなく、造園家の知識と能力が必要だ」という強い信念に基づいています。そのときの上原青年は、わずか34歳でした上原先生は深川木場の材木に縁のある家に生まれ、東京帝国大学農科大学林学科、同大学院にすすむのですが「死んだ材木」より、「生きた樹木」を対象にしたいと、本多静六の下で「森林美学」の研究を目指します。それが当時の恩師本多静六先生の助言で明治神宮内苑の計画に参画、その後、『神社林の研究』(1920)により林学博士号を授与され、同年、海外へ遊学しました。ハーバード大学やアメリカ諸都市の緑地計画を訪問調査、さらにはキューバにまで足を運んでいます。そして帰国、専門家養成の構想を練ります。大正12年関東大地震発生。「今こそ、この構想を実行に移す時だ」と判断されて造園学校の設立に踏み切ったのでしょう。当初は本多静六先生をはじめ、多くの方々は反対でしたが、井下清、龍居松之助のお二人は賛成。そして、この若い三人の手によって、東京高等造園学校は創立されたのです。
丁度去年の2024年5月には、農大造園科学科が100周年、2025年5月の今年は造園学会が100周年を迎えました。
上原先生は、明確な戦略を持っておられました。新しいプロフェッションとしての「造園」を社会に定着させるには、「学校をつくり」、「学会をつくり」、「専門家の団体、や資格制度をつくる」ことが必要と考えました。蓑茂先生らが現在、推めている登録ランドスケープアーキテクト制度とは異いますが、「日本造園士」という登録資格を創りました。また、児童文学者や保育学者などで「日本児童遊園協会」を立ち上げたり、日本庭園協会(1918年設立)創設メンバーにも加わりました。これは財界人と造園界を結びつけるハイソサエティー組織でして藤山雷太の藤山財閥の応援を得て海外との交流も広がりました。たとえば、高等造園学校3期生の高村弘平氏も日本庭園協会雑誌の編集者で力を発揮し、後に五島慶太氏の東急電鉄の子会社高村造園を設立し、二子多摩川園をつくりました。高村造園は現在の東急グリーンシステムです。
先生は上原造園研究所を設立しコンサル業務と後継者育成を図るなど総合力を発揮。造園分野の基盤を築きました。学校は人気もあり、ヤル気のある人材が入学しましたが、戦争の激化で卒業生が徴兵されると造園はゼイタク産業とみなされ、戦争の最前線に行かされるなどし、学校経営は困難となり、学校は存続の危機に直面。井下先生が母校の東京農業大学専門部に統合する形で生き残りました。これが、現在の造園科の礎となっているのです。造園は平和な時代を必要としていることを忘れないでください。
6.上野公園グランドデザイン進士委員長の発想と都市計画学会石川賞
上野恩賜公園のグランドデザイン委員会は、今から二十数年前、石原慎太郎都知事の示唆にもとづき発足しました。知事は、「文化の杜構想」を上野に提案されました。それで東京都の公園担当も検討を始めました。当時、造園家の多くは、上野公園は美術館や博物館に占拠されていて、オープンスペースとしては?と考えていました。造園史研究者は、上野公園は「過去のもの」と見なしていたようです。しかし私はそうは思いません。
好き嫌いは別として石原慎太郎の「文化の杜構想」は率直に正しいと思いました。なぜなら、明治以降の東京には文化施設が少なかった時代、上野には美術館や博物館が次々に設けられました。自然の緑もちろん大切ですが、歴史や文化、アートも同様に大切です。本来世の中には、そうした多様な要素がバランスよく存在することが必要です。ですから、上野公園は、日本の文化芸術を世界に発信する拠点にできるのです。私は逆転の発想で、上野公園全体を一つの「日本の文化空間」としてとらえ、美術館や博物館はその「大切な基本要素」として位置づければ良いと考えました。造園家としては、全体をとらえるべきだ。そういう見方ができることは、ランドスケープのキ-ポイントだと思います。
設計屋は図面しか描かず、材料屋は材料しか知らない。その結果、トータルなランドスケープの価値が見えなくなってしまいました。我々造園家はゼネラリストです。しかし世の中はスペシャリストばかりになってしまいました。ゼネラリストの目線、風景の目、ランドスケープの目で世の中を見ることはきわめて大切です。そうすれば、すべてが自分たちの仕事だととらえることができ、達観した大局的な視点で何が本当に重要か、が見えてくるのです。そのように考えると、「文化の杜構想」という発想はアーティストの視点だと感心しました。こうした考え方は、公園管理の専門技術者からはなかなか生まれないものです。
グランドデザイン委員会の委員長として私は委員の選定にこだわりました。上野公園内外の責任ある立場の館長、学長、寛永寺の貫首、上野観光連盟、台東区幹部などを網羅しました。これら各館・各機関の総合力が上野文化構成の基本だからです。従来の公園計画委員会だと、公園に直接関与するメンバーに限定していました。隣接立地の東京芸大も活かしたいし、上野の下町文化性。たとえば二木の菓子、アメヤ横丁などすべてが大切です。私は深川木場に住んでいたので、深川から本所、向島、浅草、上野ヘと下町は一体だと実感してました。ふつう東京に来ている大学生の多くは地方出身なので、下町全体のイメージは意外に見えていないようで川向うは東京でないと思っている人さえいます。本当の江戸の歴史は下町から始まり、少しづつ山の手へ拡大していったのです。上野公園の価値は、上野の山下に広がる不忍池は勿論下町一帯が眺められ、又、向岡の台地上の東大本郷キャンパスに続く眺望的地形が見てとれる位置にあります。そういう公園と地域全体の関係を考えることが重要です。
大内(18期)さんも東京都の公園管理事務所長としてグランドデザインに参加していたので良く知っていると思いますが上野公園地には、行政、博物館、美術館、芸術大学、寺院、などハイレベルな文化施設が存在しているので、その敷地全体のサクラはじめ各施設の動線やインフラ、広報等を公園部門が調整仲介しながら各機関を連携、協働して国内外に日本文化芸術を発信してゆく色々なイベントや施策を推進していくミュージアムコンソーシアム(共同事業体)の設立を提案したところ各々主体的に積極的に賛成してもらえました。上野公園にとどまらず周辺の地域に広がることが大いに期待されます。
途中で、コルビュジエ設計の国立西洋美術館が世界遺産に登録されたことに伴い、上野駅舎の改修が必要となりました。それはJR東日本が担当の「公園口の新設駅舎」に合わせて、公園口広場設計も見直し、動物園正面への軸線も整えられ、竹の台の噴水とイベント空間の整備、多摩産材活用のカフェやオーガニックレストランの建築、桜の新植と再生も行われました。こうして上野は都市公園から公園都市へと発展、地域全体に広がりました。こうした公園の担当の範囲を超えたトータルな取り組みは、本当に行政内造園家らしい最高の生き方だと思っています。
このような視点からの地域再生が評価され、上野恩賜公園は開園150年の記念すべき2024年に、日本都市計画学会大賞の「石川賞」をもらいました。この受賞は、個人名は私だけで、東京都東部公園緑地事務所、台東区、JR東日本、上野桜守の会などの連名によるものでした。 かって私は都市計画学会長も務めましたが、この学会から受賞したのは初めてで、これまでに「井下賞」、「田村賞」、「北村賞」、「今和次郎賞」、「上原敬二賞」に「石川賞」も加えられてうれしいのです。造園家はゼネラリストであるベきだと考えて都市公園、自然公園、生活学から都市計画まで、幅広い分野に取り組んできたことが評価されたからです。
ちなみに、石川栄耀はかつて都市計画学会長を務めた方ですが、新宿の「歌舞伎町」という名前は彼が名付けました。彼は「人間は働くだけの都市でよいのか、人生には楽しみが必要だ」と考え、それがたとえば歌舞伎のような、「娯楽の街づくり」につながったのです。地主たちがこの提案に賛同し「歌舞伎町」が生まれま
した。まさか、現在のようにピンクの印象が強くなるとは、当時は誰も思っていなかったでしょう。ただ人は生きるために働くのではなく、楽しむことも含めたて人間らしい都市で多様なアクティビティを肯定すべきだという都市論はこれからの時代もっと大切になるでしょう。
7. みなさんへのメッセージ
●スペシャリストとゼネラリストの両性具有
いろいろお話しました。あまりにもスペシャリストの目が強くなって、ゼネラルな目:ランドスケープの目を強調しすぎたかもしれません。トータルマンは、本当にその両方を持ち合わすべきですが、自分らしく生きることが一番です。私の場合、狭い世界に入ってのスタートでしたので広い視野の意義にウエイト(価値観)をかけたのかもしれません。ご自分に合わないと思えば私を反面教師にしてください。ともあれ私はこれまでいろいろなことを考え、多くの領域に取り組んできました。いってみれば「百姓・トータルマン」を目指したのです。
おそらく造園界では、私ほど幅広く研究し活動してきたものは稀でしょう。その希少性故に本日の講演ではまさに生前葬にふさわしく、遺言のようなつもりでお話ししたのです。授業でも研究室でも自分の人生のライフステージの全体をお話したことはなかったからです。こうした視点がみなさんにとって有意な日々につながるか、豊かな人生となるか、私には断言できませんが多少の糧となることを願っております。
それでもトータルに何にでも取り組む姿勢は、造園家らしい生き方に重なるとは思っています。組織上の役割分担が縦割りであるのは仕方ありませんが、一人ひとりが、標準レンズだけでなく、広角レンズで視野を広げ、望遠レンズで先を見ることで、他との差別化も自分らしい、より豊かな人生を送ることはできると思います。ぜひ、自分ならではの生きがいを持てるが故の、ストレスレスの生活を実現し社会貢献を果たしていただきたいと願っています。
●近著『進士五十八の日本庭園』に込めた願い
近著は、私の「造園思想と方法」を、日本庭園を舞台に論理化・体系化・ビジュアル化したものです。副題の「技心一如で自然にう」は「日本庭園は自然に敬意をはらい、アニミズム的精神と、そこから生まれた造園技法が表裏一体となり、自然に順ってそれぞれの場所や地域をデザインする」点に本質があることをコピーしたものです。
日本庭園技術は自然と人間の共生関係の表出です。私の日本庭園研究のポイントをわかり易く言えば日本庭園、すべての日本庭園の空間・景観構成は次の5つが基本で、すなわち①囲繞(enclosure)、②縮景(shukkei)、③借景(syakkei)、④樹藝(arboriculture:)、⑤び(agingの美)で成立しています。
これを、科学的合理的に説明すると、世界中のランドスケープ(造園構成)に共通する普遍的原理ともいえますが、①空間(space)、②景観(landscape)、③眺望(view)、④自然(nature)、⑤時間(time)、の5つに対応しています。
もう一つ、造園家の思想を日本庭園をたとえて深めると、その根底には「平和と安定志向」と「自然共生の知恵」があるということになります。
造園の「平和と安定志向」。古今東西すべての庭園は、人間が生存していくために不可欠の安全安心そして、安定性のある環境・空間・景観を希求し続けてきた人間活動の結果で、美しく、奥深いミクロコスモスを目指し、人間が生きられる理想境の具現でもあったのです。各国の歴史とともにある庭園の本質は共通しており、エデンの園、パラダイス、極楽浄土等といろいろ呼ばれるが、平安、安寧、美しく平和な環境空間の実現に他ならないのです。造園に見る「自然共生の知恵」。庭園は単なる装飾ではなく、人間生活に不可欠の環境デザインであり、そこに人間と自然との美しく豊かな関係性と知恵をたくさん内蔵している。例えば、世界の庭園の中でも、日本式庭園が多彩なのは地場材料、異なる自然材料を活用するのが美事で、その結果あらゆる面で景観多様性に富む。無機材料中心の現在建築景観は世界中を画一化してしまう。世界各地それぞれの魅力を世界市民が共有するには、景観多様性のランドスケーピングが強く期待されます。
「美」を追求するため、「学術・技術・芸術の三位一体」が特質だという点は環境学の中で造園学にとり最も大事な点です。
かねて私は「日本庭園は美しいビオトープ(生き物生息空間)」と強調してきましたが、現代建築家の石上純也作品「ボタニカルガーデン アートビオトープ『水庭』」は、エコロジーのみならず美しい自然再生にもチャレンジしている。これからの時代、生物多様性はもとより、感性的文化でもあり、美しいアートでもあるランドスケープデザインは不可欠。地球環境社会の造園・ランドスケープの未来に、美しいビオトープであり自然共生が基本の日本文化は、深刻な地球環境問題を救う意味からも大いに有効なのです。
世界中の環境デザイナーが、そうした豊かな地球環境の創造と地域社会の「景観多様性(landscape diversity)」の実現に向かって協働できればと願っています。
●造園・ランドスケープと平和と自然:世界を「景観多様性ランドスケープダイバーシティー」ワールドに
私の造園観の根っこには東洋の自然観、風景観、天人合一や風水地理説にもとづく土地利用観があります。
造園学会では、かなり以前から「東アジアの日・韓・中」3カ国が仲良く定期的に学術交流やシンポジウムを重ねて相互理解を深めています。鈴木忠義先生のお話で、観光と戦争のどちらを選ぶかを考えようという問いかけがありました。世界の軍事費総額と観光活動の消費総額がほぼ同じ 2) ということです。観光とは、他国を訪れ、多様な風景を楽しみ、相手国の人々と交流し、地域を理解する。
そういう体験の全体像を指し、平和の為には意外に重要だとわかるでしょう。それが観光です。もちろん観光は風景を経済化するものですから、発展途上国でもそのままの風景で誘客が可能で、その結果経済も潤うのです。紛争地や灰色の街で観光は成立しません。平和で安全、そしてランドスケープダイバーシティ(景観多様性)に充ちた社会こそが理想です。究極の世界平和は、軍事の強化ではなく、ランドスケープダイバーシティを実現し世界中の人々が観光交流することにより可能になるのです。
ミサイルを打ち上げ、人命を失いCO2対策を叫びながら大量の炭酸ガスを排出し、美しい風景も、一瞬で灰燼に帰す。こんな愚かな現代社会は、どこかおかしい。
「戦争か平和か」。私が実現に関わった中野区の「哲学の庭」は、ワーグナー・ナンドールというハンガリー動乱で西側に亡命した彫刻家の作品群がみられる場で、中野の哲学堂公園の一角に設けました。ナンドール未亡人の千代さんからの依頼で実現したもので、本日、会場にいる加園(21期)さんに設計施工管理を担当してもらいました。彫像は、世界の宗教の祖、老子、キリスト、釈迦、アブラハム、エクナ-トンの彫像が同心円上に並び、すべて全員が中央の同じ「球」を見つめています。 球は、「真実・平和」、「大切なモノ」を意味します。現代の政治家は宗教戦争を使う。例えばイスラムのハマスが悪い、ユダヤのイスラエルが悪いとアピールしますが、元来、世界宗教の祖たちはみんな「平和」や「真理」を追求するもので皆おなじだという人類共通の目標を象徴するのがナンドール作品なのです。
前にも触れましたが、東京高等造園学校の設立時から、造園界は常に「戦争と平和」と隣り合わせで来ました。昨今の世界的状況下、平和や自然共生について真剣に考えるべきではないかと自問します。自然や生命を基本に置く農学系の分科の造園は平和と自然との産業で、造園家たるもの、観光、景観多様性、地方創生、生物多様性や地球環境など多くの社会的課題に対し、使命感を持ってする職能として「造園・ランドスケープ」を捉えることが、ますます重要になっているのではないかと考える次第です。ありがとうございました。
〈注〉
1)受益者負担公園とは、公園整備による受益者が整備費の一部を負担するもの。日本初の船岡山公園の場合は備費の1/4を誘致距離4丁約430mの住民が負担しました。(土井勉 1991)
2)鈴木忠義先生の試算では、ほぼ同額であったようですが、世界の軍事費総額は観光活動消費総額の1.4(2024年現在)になっているようです。(世界の軍事費総額390兆円(2024年.ストックホルム国際平和研究所.出典:朝日新聞2025年4月28日。世界の海外旅行者総支払額272兆円(2024年世界旅行ツ-リズム協会.出典:トラベルボイス.2025年4月10日)。なお観光活動費総額に国内観光は含んでいません。)
〈配布資料〉
①進士五十八「私の東京物語」(東京新聞2015年9月29日~10月6日、連載、全10話)
②進士五十八「学会百年、造園原論からの3つの覚書-学会誕生の志・学技芸三位一体・景観多様性」(日本造園学会100周年記念誌・素稿・2025)
③進士五十八『進士五十八の日本庭園』(市ヶ谷出版社、2024年)。本の表紙妻美保子の油絵作品「禅定憧憬」を使いました。世界中の“JAPANESE GARDENS”の本の表紙が、たいてい石組や灯篭など。そうした概念をひっくり返したい思いも重なっています。
編集担当:渡部章郎*
編集後記:この「進士五十八の造園・ランドスケープ人生」は、辻馬車会の交流会を 2025 年 3 月 22 日、東京農業大学榎本ホールで行われた進士先生のスピーチを踏まえた上で、大幅に先生が補足、加筆したものを編集したものです。
進士先生の農大や造園・ランドスケープにかける思い、考え方や生き方を感じとって、みなさまの仕事や人生に生かしていただければと思います。
進士先生によると、この「辻馬車会」は、恩師江山正美先生の退任を記念して集まった進士先生門下の OB・OG の会の名称で、辻馬車は、まちの辻で乗りたい人を拾い、降りたい人を降ろす、誰でも乗れる町全体の乗り物、いわば、乗合バスのようなもので、少し格好よく言えば「大乗仏教型」の乗り物といえ、広く包容力のある会とのことです。
なお、編集を担当した、渡部章郎は今回の辻馬車会交流会の世話役 30 人の一人にすぎませんが、農大や造園を志す若い人にもぜひ伝えねばと考え編集を希望しました。
この講演録を「辻馬車会交流会だより」や渡部のブログ “Landscape.love.”( http//ameblo.jp/aw5800/ )にも掲載を予定をしています。
※渡部章郎:大林組定年退職後、パリの ENSP(ベルサイユ景観学校)大学院で学び、現在、渡部景観研究所長。技術士。博士(環境共生学)。博士論文「景観概念の変遷に関する研究」も進士先生の指導を受け、博士号を取得することができ感謝しております。